平成最後の月のカメラの整理と自分の整理

動画という、これまで領域でなかった世界へ足を踏み入れてみて、感じることは大きかった。

2019年、ここ数年のソーシャル熱で、写真や動画への、ひとびととプロの人たち、または熱量の差と、国境は薄く薄くなり、しかしはっきりとその境界線がある様をみつめながら、ネットを渡り歩く。

写真を好きな人、愛している人、仕事にしているひと、機材が好きな人、いろんな種類の人がいる。それぞれの熱量で。

ドローンのことで頭がいっぱいで、おざなりに撮られている写真たちの列挙




写真という一枚の時間とはまた別物である、動画という時間を録る時間を過ごしながら、過ごしている時はそれほど気づきのないものの、家に持ち帰り、その一部始終を見て、編集作業をすると、その違いに気づかされる。最終的に、同じ芯や答えに帰還するのだけれど、それでも写真と動画の違いに、気づかされる。

それでも、時間短縮でワンタッチ加工された写真たちよりは救いようがあるかもしれない。



救われたようで、救われない写真たち

足りない写真





写真には(きっと動画も)には、自分が写る。消しようのない自分が。仕事だと、そこを消したりもできるのだけれど、消してしまうなら、その仕事は私でなくてもいいわけで。広義の意味で、その自分というのは仕事であれきっと必要な一部なのだろう。ポジティブな意味で。

そもそも、わたしが思う写真は、その時の感情などが思い出されたり、その時の時間がそこに残っている。

どのような感情であれ、その時の時間がここに見ることができるというのは、嫌いじゃない一部のように感じる。

2年前

 

 

 

12年前

 

 

 

数年前

いつだったか

 

 

 

 

 

 

 

撮るだけそれだけで個々人に価値のある、家やペットのアルバムというのもあるわけで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにはともあれ

何で撮っても

何で編集や加工をしても

その時に、何を思って撮っているのかが

よくよく写り

のちに、「好きな写真」だといえるもの

そう思える時間を、過ごしていることが

私の好きな生き方であり

好きな写真であるとおもう。

 

 

気づけば平成時代が終わろうとしている。あともうすこし。

 

きょうから3月

HASSELBALDでフィルム写真を撮ろうとおもっている。

 

 

 

 

 

 

平成最後の月のカメラの整理と自分の整理” への2件のフィードバック

  1. 私はかふあさんの写真を全て観てるわけではありませんが、かふあさんの写真には「情感」がこもってるように思います。
    言葉に表すのは難しいんですが、「ああ〜(納得)」っていう感じ?w
    そして、その情感が余韻を残していて、それがまた心地良いんですよね。
    珈琲の酸味のような、心の奥をくすぐるような味わいです。
    でも、その一方で、何とも言えない「濁り」のようなコク?も感じます。
    心地良いだけじゃ済まなないという「凄み」みたいな緊張感も。
    写真というより、かふあさんのそうした「好き」が、私にはとても魅力的に思えます。

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